神戸市地下鉄と 旧神戸市電

神戸市交通局
https://kotsu.city.kobe.lg.jp/subway
ウキベキアより 下記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%B8%82%E5%96%B6%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84
神戸市営地下鉄(こうべしえいちかてつ, Kobe City Subway)は、神戸市交通局が運営する地下鉄である。1977年3月13日に開業した。
路線は5路線を所有しているが、西神延伸線・西神線・山手線は「西神・山手線」として一体的に運行されているため、実質的には北神線および海岸線と合わせ3路線2系統である。神戸市の西区、須磨区、長田区、兵庫区、中央区、北区の6区に路線を持つ。
なお、各種条例での名称は「神戸市高速鉄道」となっている(神戸高速鉄道とは無関係)。
路線
路線は西神・山手線の22.7km、北神線7.5km、海岸線7.9km、総延長合計38.1kmを有する。各線とも軌間は1,435mmの標準軌、架線電圧は直流1,500Vであるが、海岸線はリニア地下鉄で西神・山手線および北神線と規格が異なり、線路は繋がっていない。

旧神戸市電
神戸市電(こうべしでん)は、かつて神戸市交通局が運営していた路面電車(市電)である。神戸市の市営交通事業は神戸市電により1917年に開始された。
1910年に神戸電気鉄道[注釈 1]によって、兵庫と神戸の両市街地を結ぶ路面電車として開業した。東京・大阪・名古屋などの、当時の六大都市の中では開業が一番遅かった[1]。1917年に神戸市に買収されて電気局(のちの交通局)が運営するようになった。その後、神戸市の発展に伴って路線を拡大、全盛期には35.6 kmの路線網を有したが、モータリゼーションの進展や神戸高速鉄道の開通によって乗客が減少、1971年に全線が廃止された。
概要
軌間は標準軌 (1435 mm)、電圧は直流600 V。六甲山南麓を東西へと広がる神戸市街の特徴のままに、路線網も東西に長く、「山手」と「浜手」の2ルートに大きく分けられる。また神戸へ集まってくる各私鉄とのアクセスも担っており、中でも長田での山陽電鉄との平面交差(山陽電鉄は当時、兵庫 – 長田間で地上の併用軌道を走っていた)及び両者の電圧が異なるためのデッドセクションは名物だった。
開業は、東京・大阪・名古屋などの旧六大都市の中で一番遅かったものの、開業当初より、関係者の技術革新の意識が燃えていたという[1]。そのため、他都市に先んじて低床車や鋼製車体、運転台を車内に取り入れるなど、先進的な技術を積極的に導入した。車体塗色は、開業当時には茶色一色だった。サービス面でも新しい施策を積極的に採り入れ、その一つに、婦人専用電車(1920年、日本初)の運行がある。
1935年には座席に転換クロスシートを採用した画期的な「ローマンスカー」700形を登場させた。この「ローマンスカー」は、2人がけの転換クロスシートが24席並び、屋根が丸みを帯びた張り上げ屋根に変更され、リノヒューム張りの床材に自動ドアなどを採用した画期的な車両となっていた。ゴム入りの弾性車輪も試用された。車体の塗色もぶどう色などの暗色系の単色が車体塗装の主流だった昭和戦前期において、いち早くグリーンとクリームのツートンカラーを採用し、市民から「東洋一、みどりの市電」と親しまれた。この年の12月24日の『神戸新聞』では、「神戸市電が誇るローマンスカー 笑顔を満載して あすから八両を運転」と言う記事名で、試運転時の車内写真とともに掲載されていた。この塗装は神戸市電のイメージを確立し、それまでに登場した車両も全車このツートンカラーに変更された。この塗色は、神戸市電独特の角ばった車番表記とともに、現在の神戸市営地下鉄へ引き継がれている。
1935年3月には、女子車掌を登場させた。安全面においても救助網にフェンダー・ストライカーを採用して、障害物が車輪に巻き込まれる前にすくい上げることができるようにするなどの配慮がなされていた。このようなハード・ソフト両面におけるきめ細かい取り組みにより、神戸市電は「東洋一の市電[2]」と称された。
廃止後に余剰となった車両58両が須磨沖に人工魚礁として沈められ、全廃から50年を経た2021年に海中写真を趣味とする神戸市職員らの調査によって海底に車体の一部が残存していることが確認された[3][4][5]。
歴史
開業まで
神戸市内における市街電気鉄道の敷設計画は、1893年頃にまで遡る。1893年9月に、当時の内務省に池田貫兵衛ら四人が計画した神戸電気鉄道と土井利正ら四人が計画した兵神電気鉄道が同じ時期に出願された。出願を受け付けた兵庫県は、神戸市に対して道路使用の支障有無を諮問した。市議会側は委員会を設置した。しかしながら、新しい動きに「狭い道路に鉄道は危険」と言う慎重派に加えて、反対派も大勢いたという。しかし、年を重ねるごとに他の大都市で路面電車が走り出すと、1900年代頃より、実現に向けて計画が動き出した[1]。
しかしながら今度は事業主体を市営とするか民営とするかで意見が分かれたが、当時の水上浩躬神戸市長が財政上の問題から市内電車の早期敷設のためには民間企業による敷設やむなしと判断、将来の市への事業譲渡などを条件に、民間企業の出願を認めることとなった。これによって当初から市内電車建設計画を持っていた神戸電気鉄道[注釈 1]をはじめ5社が出願したほか、阪神電気鉄道も神戸側の終点を三宮からメリケン波止場まで延伸する路線免許を出願するなど、出願者が続出する有様となった。こうした状況を受けて市と出願者の間で協議を行った結果、神戸電気鉄道を中心に合資協力を行うこととなり、発起人の増員と増資を実施して再出願を行い、1906年(明治39年)11月に内務大臣から敷設特許が交付された。
神戸電気鉄道は免許を交付された第1期、第2期線合わせて26 kmのうち、神戸市内の中心部を東西に貫き、当時はまだ別の町の色彩が強かった兵庫と神戸を結ぶ、春日野(後の春日野道) – 兵庫駅前間の建設を開始した。軌道をはじめ車庫、工場、発電所といった施設の工事も順調に進み、1910年(明治43年)4月5日、総延長5.8kmの路面電車が神戸電気鉄道の手によって開業された[1]。春の好天に電車を一目見ようと大勢の見物人が詰め掛け、沿線の軒先には「祝開業」の文字を入れた真っ赤な提灯がずらりとぶら下げられたり、万国旗や祝賀アーチが至る所で飾られてあったりなど、沿線住民の歓迎ぶりは相当なものであったという。この後も1912年(明治45年)から1913年(大正2年)にかけて、布引線、兵庫線、平野線を開業させたほか、この間の1913年5月には、行政と神戸財界の周旋により、配電事業における過当競争を防ぐために神戸電気鉄道開業前から神戸市内で配電事業を行っていた神戸電燈と合併、社名を神戸電気と改称した。
1910年の開業当初、路線運営に必要な電車の車両数は五十両であった。また、一番最初の計画から既に17年もの月日が流れていた[1]。
当初、神戸市は神戸電気鉄道の開業に際して、「神戸電気鉄道は純利益の十分の五を納める」と言う条件をつけていたり、他にも優遇策として、橋使用料・市税納付の免除。などが当たっという。市の優遇政策などを受け神戸市電は二号線、三号線、四号線などの路線を1913年9月3日までに開通を急がせていったと言う。
神戸市おでかけサイト https://www.feel-kobe.jp/
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